暗闇に差し込む一筋の希望の光?

2017年12月31日、前述の通り6年生だった自分は自主退学した。

 

卒業試験が終わり『死刑宣告』を受けた自分はこのブログを立ち上げた。

あのときの事を今考えると本当に必死だった、文字通り。

そんなことがあってたまるかという気持ちともしこれを覆すことができない場合生きていけるのか、寝ても覚めても考えずにはいられない、まさにそんな日々だった。

部活の先輩方も心配して相談に乗ってくださったり、他大学では救済措置があった等の情報を集めてくださったり高校時代の旧友がこんな友達がいるのだがどうにか戻れないものか、もしくは他の大学に編入できないだろうかとか旧友の大学の教授に相談してくれたりした。

 

とりあえず自分にできることは今出来ることを全てやるしか他に道がないように思えた。

学科長に直談判するためアポを取り母を伴って学科長室でこれまでの思い、今回の件について決して怠慢なんかじゃない、必死でやってきたと訴えたが梨の礫だった、学科長は医療面接のテクニックにもある傾聴の姿勢をとるだけで全く手応えのない、学科長として、大学として適正に判断した結果である、どうしようもないと繰り返すだけ、まるで自動応答の機械のようだった。

直談判のあと母と2人で近くの定食屋で食べた時のあの悲しい暗く重い空気は一生忘れられないと思う、とにかく絶望だった。

親の前でこんなに恥ずかしい姿を見せるだけでも本当に死んだ方がいいのではないかと真剣に考えていた。

 

今出来ることの最終手段として残ったのは、学長への直談判。

うちの大学は総合大学、学長はすべての学部の長であるから自分の処分も学長の裁量で決定されるだろう、その学長に直にお願いするのが絶対の最終防衛ラインだと当時の自分は思った、むしろもうそれくらいしか残っていなかった。

そこまでやってダメならもうだめだ、その時は潔く自分の至らなさ、負けを認めすべて受け入れよう。

受け入れたその先は希望の光もないただの闇、生きていく意味など見出せない漆黒の世界だろうからその時は両親、家族、親戚になるべく迷惑のかからないよう身の処し方を考えて消えよう、いや消えなければならないと思った。

 

在学中の活動で学長から賞を貰ったこともあったので学長とは面識もあった、どのようにして会うか、そしてどう訴えればいいのか考えていた。

そうこうしている中一本の電話が学務からかかってきた。

その電話がきっかけで自分は年末、自主退学を決意する事になる。